Chapter 4-7


さよなら


「あ、あなた……何……故ここに?」
 状況が全く飲み込めなくて、アリエルは混乱している。何が自分の身に起きたのか、まるで分からないのだ。
 力の入らない手足は思うように動かすことが出来なくて、いや、動かすどころか、どうしようもなく震えて仕方がなかった。

 どうして、トムがこんなことをするのか、彼女はさっぱり分からなかった。
 彼とは特に親しいわけでもなく、顔を合わせば軽い会釈をする程度の仲でしかない。それなのに何故今、こんなにもこの男は接近してきているのか。

「何故だって? 君は俺の気持ちに、気づいていたんだろう?」
 すぐ横で男が喉を鳴らして笑った。その目は戸惑う彼女を面白がって見下ろしている。
 アリエルの肩を更に強く抱き締め自分の胸に閉じ込めたかと思うと、頬ずりでもするかのようにトムは顔を近づけてきた。
「気づいてた? どういうこと……」
 アリエルは勇気を奮ってトムに問いかける。彼の言うことは何一つ理解出来なくておかしくなりそうだ。
 しかし、男はそんな彼女を鼻で笑って、横柄な態度をやめようとはしなかった。
「なあ、アリエル。今更駆け引きなんてよそうよ。今夜、君と俺は何度も目が合ってただろう? ジュールの奴がハンスさんと前で話していた時も、あいつを仲間達で祝ってやってた時も、気がついたら君はこっちを見ていた。それも一度や二度じゃなかった筈だ」
「なーー、違うわ」
 アリエルは慌ててトムの言い分を否定した。彼女はトムの顔など、見ていたわけではなかったからだ。
 確かにアリエルはある人物を意識していた。見ないようにしようと決意した意志を裏切って、何度もその姿を視野に入れていた。でもそれはトムではない。断じてこの男ではないのだ。
「あなたを見てなんかいないわよ!」
 真っ向から男と対立するアリエルを、当の男は気にするふうもなく、のんびりとした声で言い返してきた。
「だから、そういうのやめようって言ってるんだよ。時間が勿体無くてしょうがない。君と俺が同じ気持ちでいると分かったんだ。もっと有意義に過ごしたいもんだね」
「ち、違うわよ。何言ってーー」
 どうやらトムの耳には、少しもアリエルの声が届いてないらしい。何でも自分に都合よく捉える身勝手さに、空恐ろしさと腹立ちを覚えた。
「あなたとわたしが同じ気持ちですって?」
 冗談じゃない、と続けようとしたアリエルの口を、トムは荒々しい手つきでいきなり塞ぐ。呼吸を無理やり阻まれたアリエルは、息苦しさに涙ぐんだ。
 苦しくて顔を歪ませるアリエルを、トムはとろんとした締まりのない眼差しでうっとりと見つめている。
「そうだよ、俺はずっと君を見ていた。君はいつもあいつといたから、いつもいつも君の横にはあの男がいたから、だから仕方なく俺は君達から一歩ひいて、遠慮していただけなんだ」
「はなーー」
「だが、あいつはいなくなる。もうじき君の前からいなくなる。君と俺を邪魔する煩わしい壁は、もうなくなるんだよ、アリエル」
「ん、んんーー、んーー」
「これで堂々と君に言える。今までどうしても言えなかったことさ。アリエル聞いてくれ、君を誰よりも愛してる」
 涙を滲ませながらアリエルは首を振った。愛してると言いながら、トムは少しもアリエルを思いやっていなかった。自分の我を子供のように押しつけて、一人で勝手に悦に入ってるだけだ。彼女の表情など目にも入っていない。
 どうしてこんな目に遭うのだろう。
 焦るアリエルの脳裏に、いつか聞いたジュールの言葉が蘇る。

『トムはいい奴だ。だけど思い込みの激しい面がある。君にその気がないなら、あまり刺激しない方がいい』

 あれは朝のバラ園で、周囲の感情にあまりに無関心な彼女を憂い、ジュールが忠告してきた言葉だった。
 やんわりとたしなめられたその言い方が、なんだか馬鹿にされたような気がして、アリエルは素直に頷くことが出来なかった。
 それどころか、トムのことなど自分でどうにでも対処出来ると、彼に大見得を切ってしまったぐらいである。

 本当に馬鹿な娘だった。だけど、あの時は自信があったのだ。何故ならトムはアリエルを遠巻きに見ているだけで、近づいて来ようとはしなかったから。
 酒に酔ったトムがこんな自分勝手な人間に変貌してしまうとは、彼女は夢にも思ってなかったのである。

 あの時、ほんの少しでもジュールの言葉を真摯に受け止め、身の振り方にもっと気をつけていたら、こんな悪夢を呼び込むこともなかっただろう。

「助けて……っ!」

 アリエルはあらん限りの力を振り絞り、叫び声を上げた。力の続く限り暴れて、男の戒めを解くべく全力を注いだ。
「助けて、誰か助けて!」
 急に激しく騒ぎ始めたアリエルに、さすがのトムも余裕をなくしていく。
「お、落ち着いて、アリエル……」
「いっ、いや、いやーー」

 胸に浮かぶのはたった一人の青年だ。ブロンドの髪と明るいグリーンの瞳が魅力的な、背の高い青年。

(ジュール……)

「助けて……、ジュール助けてよ」
 アリエルは来る筈のないその名前に、どうしようもなくしがみついてしまう。
「ねえ、助けて、ジュール助けて!」
 すぐに低い声が脅しをかけてきた。
「その名を出すなと言っただろう」
「いや、いや離して、ジュール」
「静かにするんだ!」
 トムはアリエルの口を再び片腕で塞ぎ、彼女の体をもう一方の腕で抱え上げると、手近な扉を背中から押して、暴れるアリエルごと無理やり部屋の中へと入り込んだ。
 部屋へと連れ込まれてしまったら、誰かが通りかかっても気づいてもらえない。
「い、いやーー」
 アリエルは必死になって、出来うる限りの抵抗を重ねた。忌々しい男の腕から逃れるべく、ありったけの手を尽くした。
 だが、いくら踏みとどまろうと足に力を込め踏ん張ってみても、怪我を承知で近くの壁を掴もうと指を伸ばしてみても、自分を取り押さえる言葉の通じない相手は、いとも簡単にそれを無駄な努力へと変えていく。彼女とトムとでは力に差がありすぎたのだ。

 暗い部屋に強い力で強引に押し込められたあと、アリエルは呆気なく奥へと放り投げられた。
「きゃっーー」
 土の匂いのする部屋は食物庫のようで、野菜が入った袋の上に尻餅をつく。すぐに上からトムが倒れ込んできた。
「ここでなら、二人きりだね」
 荒々しい息が至近距離から肌に吹きかけられ、堪えきれずに顔を背けた。
 そんな彼女の態度に気分を害したのか、トムは不愉快そうに愚痴をこぼす。
「気に入らないよ、アリエル。なんであいつの名前なんか」
「何度でも言うわよ。ジュール、助けて!」
 男の接近を拒んで、彼女は激しく暴れた。このままこの男に自由にされるなど、考えたくもないことだった。
「やめろ、その名を呼ぶな! それ以上言う気なら、俺ももう遠慮はしない」
 苛立つトムが乱暴にアリエルの顎を掴んだ瞬間、暗い部屋の中に人の気配が転がり込んで来る。
「アリエルを離せ、トム!」
 突然聞こえてきた新たな人物の声を、にわかには信じられなくてアリエルはその男を見上げた。

 嘘としか思えなかった。
 だって彼女の願望が叶えられてる。これはもしかして、現実ではなく夢なのか。
「ジュ……ジュール?」

 食物庫へと乱入するかのように飛び込んできたジュールは、いきなりトムに掴みかかると彼の体を突き飛ばした。隅の壁に背中を叩きつけられたトムが、恐ろしい形相で顔を上げる。
「な、何をする?」
 いきり立つトムが気色ばんで体を起こす中、ジュールはアリエルの手を引き上げ走り出した。
「アリエル、立って」
「え、ええ……」
「ま、待てっーー」
 食物庫に一人置き去りにされたトムが焦ったように呼び止めてきたが、ジュールはそれを無視して走り続けた。




「は、離してよ……」
 いつの間にか外にいた。
 誰のせいでもない、彼女の手を外そうとしない、前を走る広い背中のせいだ。
 アリエルは無言で駆ける男の手を強く引っ張り、無理やり足を止めて抗議した。
「は、離してったら、聞こえないの?」
「ご……、ごめん」
 乱れた呼吸を繰り返すアリエルを、ジュールはゆっくりと振り返る。彼の息も切れ切れになっており、酷く苦しそうだった。
「な、何故、あそこへいたのよ……」
 ジュールの肌には汗が浮いていて、不思議なことに明るいグリーンの瞳には、焦燥感まで浮かんでいる。まるでアリエルを必死になって探していたと言わんばかりに。
「君の声が聞こえてきたから……、僕を呼ぶ君の声が……」
 アリエルはカッとなって声を荒げた。
「わたしがあなたを呼んだから、だから助けに来たと言いたいの?」
 あの晩餐会が行われていた会場まで、アリエルの悲鳴が聞こえてきたと言うのだろうか。それで仕方なく彼女を救いに来たと、この男は言ってるのか。そんな馬鹿げた話、信じられる訳ない。
「いや、違う。そうじゃない」
 ジュールは首を振って苦しげに呻いた。彼は言葉を逡巡して、ポツリポツリとこぼし始める。
「トムを探しに来たんだ。あいつの姿が、その、急に見えなくなったから……」
「トムを?」
 何てことだろう。アリエルとは、何ら関係のない話だったらしい。トムの行方を探していて、たまたま彼女を見つけたというのが真相のようだ。何とお優しい心の持ち主だろうか。馬鹿馬鹿しくて涙が出そうだ。
 アリエルは急速に萎んでいく、酷く惨めな気持ちを持て余していた。これ以上ジュールの話を聞いているのも、やりきれなくて辛い。
「トムが姿を消す前、君は部屋に戻ると言って僕らの前からいなくなった。それでもしかしたらと、気が気ではなくなったんだ」
「えっ……?」

(どういう意味?)

 目の前のグリーンの瞳が、月を映す湖面のようにゆらゆらと揺らいでいる。
「トムは君に夢中だった。普段のあいつは真面目で根がいい奴だけど、今夜はまずいことに酒に酔って、随分気が大きくなっている。君の態度や言葉を履き違えて、取り返しのつかないことをしでかしたらどうしようかと、それだけが心配だった」
「それって……?」
 ジュールは息を飲んでアリエルを見つめた。それから、彼女の震える肩に手を伸ばして、強く抱き締めてきた。
 吐息混じりの声が、夜風とともに耳をくすぐっていく。

「よかったーー、君を見つけることが出来て。君が僕を呼んでくれて」
「ジュール……」
 項を掠める熱い唇。優しくて懐かしいジュールの香りに、沸き立つ想いを抑えきれなくなる。
 逞しい胸がアリエルの体を確かめるかのように、彼女を抱く腕により一層力が込められる度に、夢心地になった思考が考えることを、少しずつ放棄していく。

 このままどこまでも、この香りに包まれて、果てしのない彼方まで流されてしまいたいーー。
 アリエルの高揚する気持ちに同調するかのごとく、熱を持った囁きが耳を打った。

「僕は、僕には……、何より君が大事だった。やっぱり君が、……大事だったんだ」

 だが、その声が聞こえた瞬間、溶けてなくなりそうになっていた彼女の自我は、皮肉にも鮮やかなほどに素早く心の中へと舞い戻ってきた。
 アリエルは目を開けて、愛の告白かと見紛う台詞を、甘く囁いたかつての親友を睨みつける。

「ーー嘘つき」
 そのまま相手に向かって、鋭い刃を投げつけた。
「嘘つきね、わたしが何よりも大事ですって?」

 ジュールが大きく目を見開いて、こちらを見返していた。美しかった彼のグリーンの双眸は、どうしたことか酷く澱んで濁って見えた。
「だったらどうしてあんな嘘をつくの。アンナさんと付き合ってるなんて、どうしてあんな嘘をついたの。ねえ、ジュール、答えられないのなら、代わりに答えてあげましょうか? それはね、あなたは自分を、わたしの恋愛対象から外したかったのよ。恋人の存在をオープンにしてれば、まず普通はあなたをそんな目でみないものね。あなたは嘘をついて自分の周りに見えない防壁を張り巡らせて、それ以上踏み込んでこられるのを必死に防御していたのよ。そんなあなたがわたしを大事だと思っているなんて、とんだお笑い種だわ」
 ジュールの顔が脆く崩れていく。彼は狼狽したように首を振って、低い唸り声を漏らした。
「違う、それは違うんだ、アリエル……」
 言い訳でも始める気なのか、ジュールは焦ったように眉を寄せた顔を近づけてくる。
「嘘つき! あなたの言うことなんか信じられない。もう、何も聞きたくない!」

(本当のことは、何も教えてくれないくせに……)

 アリエルはジュールの胸から勢いよく飛び出した。呆然と立ち尽くす男が、青ざめて顔を強ばらせている。
 情けなく言い淀むジュールのその表情こそが、真実を告げていた。アリエルと彼の間にはやはり、避けようのない大きな隔たりがあったのだと。
「さよなら、ジュール。あなたなんか、どこへなりとでも行ってしまえばいい。そして、もう二度とわたしの前に現れないで」
「待って、アリエルーー!」

 ジュールの呼び止める声を振り切って、アリエルはその場から駆け出した。
 彼の声が耳に入るのを両手で力一杯塞いで、暗い庭園を行き先も決めず闇雲に走り抜け、まるで逃げるように彼から離れることだけを考えていた。

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