Chapter 4-6


声をかけてきた男


「何って、たいした話じゃないわ。女同士の内緒話よ。ね、アリエルさん」

 アンナがクスクスと軽やかな笑い声を上げながら、アリエルに目配せをしてくる。しかし、ジュールはアリエルの存在を頑なに無視しているようで、アンナの前に仁王立ちになり、彼女のことしか見ていない。少しも絡み合わない視線が雄弁に語っていた。アリエルには何の用もないのだと。

(何よ……、何よ、その態度)

 苛立つ気持ちを止められない。彼を友人だと信じていた過去の自分が、酷く惨めに思えてくる。真実を隠され、嘘で塗り固められた姿しか見せて貰えていなかった。
 大事な夢の話まで包み隠さず話していた自分とは、何て違いだろう。
 アリエルの話をどんな心情で聞いていたのか、一度尋ねてみたいものだ。もう二度と話す機会などないであろうが。

「何の……、話かな」
 上擦った声でジュールは再度問いかけてきた。勿論アリエルにではない、アンナにだ。
 平然と微笑む年上の侍女に、苛立ちすら覗かせる表情だった。馴れ馴れしい口振りが気に食わない。二人の関係は偽物だったことをこちらは既に聞き及んでいるのに、そのことを知らないジュールは必死で上辺を取り繕っているのだ。
 馬鹿みたいである。
 ジュールはアンナとだけ話がしたいのだろう。それなら自分は文字通り邪魔な存在だ。
 アリエルはざわめく気持ちを押さえ込み、アンナに声をかけた。望み通り、二人にしてやると決めていた。
「アンナさん、お話ならお二人でごゆっくりどうぞ。わたしは席を外します」
「いやだ、あなたがいなくなる必要はないわ。それこそおかしなことになるじゃない」
「えっ?」
 アンナは大げさにおどけてアリエルの提案を却下した。それから彼女は、怪訝な顔で立ちふさがる男を、呆れたように見上げる。
「ねえ、ジュール。話ならもう終わったの。どうしても聞きたいのなら、アリエルさんからお聞きなさいな」
「えっ?」
「えっ?」

 唖然とするアリエル達を置いて、アンナは一方的に話を切り上げる。そして面倒くさそうに手元に目を落とし、立ち上がった。
「ねえ、手を離してよ。人に見られて変な勘ぐり受けたくないの、わたし」
「あ、ああ……」
 ポカンとした情けない顔の男から、彼女は無理やり腕を振りほどくと、フウと大きく息をついた。ジュールの残された手は、所在なさげにあるべき位置に戻っていく。
「じゃあね、アリエルさん。あなたと話が出来てよかった。誤解もとけて本当によかったわ」
 今にも彼女は立ち去らんばかりとなっていた。
 そんな、このままにされるなんてたまらない。アリエルは必死になって呼び止めた。
「待って、アンナさん」
 切羽詰まったジュールの声も追いかけてくる。彼だって、アリエルと残されるのは不本意なのだろう。
「き、君、どこに行くんだ」
 やれやれと言うように、妖艶な美女は二人を振り返った。
「疲れたから休むのよ。あのね、そんなことわたしの勝手でしょ。言いたいことは言ったし、わたしの用事はもう済んだの。あなたにお別れを言うのは今でなくても構わないんだから、もういいでしょ」
 欠伸をこぼしながらアンナは呟く。
「あなた達も、頑張ってね。じゃあ」
 弾むような足取りで食堂を出て行く女性を、二人は途方に暮れて見送るしかなかったのだった。

 何をどう頑張れと言うのだろう。
 あとに残されたのはアリエルとジュールだけ。もう何日もまともに口をきいていない、アリエルとジュールの二人だけだ。
 気まずい時間が流れていく。
 アリエルはどうすればいいのか分からず、戸惑って俯いた。
 すぐ近くに男の気配を感じていた。ジュールも混乱したままのようで、アンナが立ち去ってから一歩も動いていない。いまだにアリエルの側にいるのも、この状況に何の対処も出来ないからであろう。
 彼の存在を意識してしまうと、ますます身動きが取れなくなる。「わたしも行くわ」と言って立ち上がればいいだけなのに、返ってくる返事など無視して足を動かせばいいだけなのに、干からびた喉とかちこちに固まった体が、アリエルから自由を奪っていた。
 こんな状態でジュールと二人きりにされたら八方塞がりだ。アンナは謝っていたが、いまだにアリエルをからかって苛めたいのだろうか。

「……と、アリエル……」
 低い声が聞こえてくる。
 聞き間違いか? ジュールから発せられたみたいであったが……。どうやら彼のことばかり考えていたから、幻聴まで聞こえてきたようだ。
「アリエル、あの……」
 心臓が飛び跳ねる。
 違う、これは幻聴なんかじゃない。今、確かにジュールが彼女の名を呼んでいたのだ。
「な、何……?」
 顔を上げたアリエルは、自分を見下ろすグリーンの瞳に声を失う。
 焦りと不安、その他諸々の感情が明るい色味を打ち消すように、どんよりとその中に浮かんでいた。
「き、君は……」
 息を乱しながら彼は続ける。苦しげな表情にキリリと彼女の胸も痛みを訴えてきた。
 呼吸も忘れて、ジュールの唇に目を奪われていた。彼が何を紡ぎ出すのか、全身で受け止めたかったのである。

「こんなところにいたのか、ジュール!」

 その時、突然ジュールの肩を叩いて誰かが会話に割り込んできた。驚くジュールの横から、ワインで赤らむ頬を隠しもしないで、男がひょこっと顔を覗かせた。
「トム」
 背後から寄りかかってきた同僚に、ジュールは眉を寄せて抗議を示す。だが、男の方は我関せずといった様子だ。かなり酔ってるらしい。
 男は、ジュールと同じ、グルム公爵付き近侍のトムだった。ジュールより一年先輩に当たる、普段は生真面目な印象の男だ。
 トムはほろ酔い気分の浮かれた様で踊るように近づいてきて、呆気に取られる青年の頭をぐしゃぐしゃにかき回して笑った。

「お前、主役がこんなところで引っ込んでたら駄目だろ。皆が呼んでるぞ」
 彼の背後ではジュールの不在に気づいた仲間達が、早く来いよとばかりに手招きをしている。トムは誰よりも早くジュールの居場所に気づいて、こちらへやって来たのだろう。
「さあ、戻ろう。美しいご婦人の側にいたい気持ちは分かるが、あいつらだってお前との別れを惜しんでるんだ」
 アリエルはトムの軽口に耳を疑った。彼女はトムとは親しい間柄ではない。だから彼の性格をよくは知らないが、こんな軽い冗談を口にするような男ではなかった筈だ。
 女性とは一歩引いた付き合いをする奥手の男、それが公爵家に勤める侍女達の一致した意見だった。
 それはジュールも同じだったらしく、トムを窘めるように声をかける。
「かなり飲んでるな。そろそろ控えたらどうだ」
「いいだろ、飲みたい気分なんだ。こんなチャンス滅多にないからな」
 なかなか動こうとしないジュールに、トムはじれたように肩を小突いた。
「そんなことより、ほら、行くぞ」
「し、しかし……」
 ジュールはアリエルを気にして、物憂げな視線をこちらに送ってくる。
 いったい何なのだろう。
 どうしようもない苛立ちで無性に腹が立っていた。今更彼女に何の話があると言うのか。何もありはしない。

(そうよ。本当のことは何一つ、教えてくれなかったくせに)

「早く、お行きになったら。皆さんがお待ちかねよ」
 アリエルは素早く椅子から立ち上がり、彼らに背を向け歩き始める。巻き込まれるのはごめんだった。
「ごきげんよう。わたしはお先に失礼しますね」
 ジュールの顔など見てやるものか。彼を振り切って堂々と出て行くのが、彼女の最後の意地だった。




 一刻も早くあの場所から遠のかなければ。
 アリエルは逃げるように、小走りで階下の通路を駆け抜けていた。
 気がつけばすっかり賑わいから遠ざかっている。灯りの消えた暗い通路に人の気配はなく、誰もがまだ酒盛りを楽しんでいる最中なのであろう。
 主達は約束通り、使用人達に自由を与えてくれていた。侍女や近侍を呼ぶベルが鳴ることは、ただの一度としてなかったのだ。
 だがしかし、そんなありがたい好意にも、アリエルはその恩恵を受けることが出来なかった。彼女は早く時間が立つことをひたすら望み、遂にはしっぽを巻いて逃げ出して来たのだから。

「馬鹿だわ、わたし……」
 足を止め、壁に手をついてその場に屈み込む。
 頬を濡らす涙が疎ましくて仕方ない。どうしてあの男のために、自分はいつまでもこうして泣いてしまうのか。これが心を奪われるということなのか。
 ならばこんな気持ちなどアリエルはいらない。自分には今後一生必要ないものだ。


「ーーどうしたの? そんなところでしゃがんだりして」

 彼女一人しかいない筈の静かな空間で、いきなり背後からその声は聞こえてきた。
 低くしわがれた、妙に響く男の声。
「ひっ」
 アリエルは心臓が壊れるほど驚いて、叫び声を上げる。暗がりで突然声をかけられるのは、思ったよりも怖いものだ。腰が抜けて立ち上がれなくなりそうだった。
「あ、あの……」
 誰なのか? こんな場所まで彼女を追いかけてきたのは。
 いや、追いかけて来たとは限らないが、偶然にしては胡散臭さを感じる。同じ時間帯にあの晩餐から、同じように抜け出していた人物が他にもいたとは思えない。
 それに比べ、彼女を追いかけて来る人物なら心当たりが一人いた。何やら話がありそうだったジュールである。

 アリエルは逸る心臓を宥めるように深呼吸を繰り返した。だが、後ろを振り向いて、ジュールの顔を確認する勇気はどこにもなかった。

「もしかして、俺を待ってたの?」
 得体の知れない相手は彼女の反応など意にも介さず、一歩一歩と距離を詰めてくる。段々と縮まってくる隔たりにアリエルは震え上がった。
「だ、誰? ジ……、ジュール?」
 恐怖心がおさまらなくて思わず声を出す。でも本当は気がついていた。この男はジュールではない。
(誰なの……よ)
「よしてくれ。その名前を出すなんて興ざめだ」
 男が忌々しげに愚痴を漏らした。酒臭い息がアリエルを包み込んでいく。
 男は後ろから手を伸ばし、彼女の体を否応なく抱き締めた。耳元に濡れた唇が触れてくる。ねっとりとした生暖かい感触だった。
「や、やめて……!」
 彼女はすぐ側に寄ってきた男の顔を見て、驚愕のあまり消え入りそうな声を出した。
「ト、トムさん」
「当たり、やっとこっちを向いてくれたね」

 背中から太い腕を回し、我が物顔でアリエルを胸の中に閉じ込める男は、ジュールの同僚で先ほど彼を呼びに来た男、公爵付き近侍のトムだった。

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