Chapter 3-15


母と息子 3


「暇?」
「ええ」
「暇ってどういうこと?」

 不安げな表情を浮かべるリチャードを、グレースは冷たく見下ろした。

「お母様に向かって何ですか、その口のきき方は」

 リチャードは慌てて口元を引き締める。突然部屋へと入ってきた母親の珍しい行動に意識を奪われ、母が行儀作法に厳しい人だということを忘れてしまっていた。

「ごめんなさい、お母様。ラウラに暇を出したとはどういう意味ですか?」
 グレースはリチャードの顔をチラリと睨みつけると、「仕方がないでしょう」と部屋の中を検分するかのように歩いていく。
「あの娘はわたし達に黙って、汚い野良猫をこの館で飼っていたのですよ」
「えっ?」
 グレースは息子の色を変えた顔に少しも気がつかなかった。外出ばかりしていたためいつの間にか日焼けをしていたリチャードが、唇を震わせて硬い表情をしていても分かりにくかったようだ。
 部屋の中に目に見えた異変がないと分かるやいなや、彼女はようやく安心したように息を吐いて背筋を伸ばした。
「本当に寿命が縮むかと思ったわ。わたしの前にあの、薄汚れた猫が飛び出てきた時には」
「猫……?」
「そうよ、あなたの部屋の前を通りかかったら、突然扉の陰から見たこともない生き物が飛び出してきたの」
 嫌なことを思い出したとでも言うように、グレースは両腕をかき抱いて眉をひそめる。
「大声で叫んでしまったわ。この館に鼠でも出たのかと思って」
 リチャードが何の返事を返さなくても、彼女は構わなかったらしい。息子の反応よりも自らの驚きを知らせることを、彼女は優先していた。お陰で芝居がかった物言いはおさまるどころか、益々大げさなものに変わっていく。
「よく見たら鼠ではなくて猫だったのよ。でもこの館にはペットなど飼ってはいないでしょう。それでどういうことかと辺りを見回していたら、猫を追うように侍女があとから出て来たの」
 リチャードはビクリと体を硬くした。夫人と視線を合わせた時のラウラの衝撃を思い、心臓が握りつぶされたように痛んだ。
「わたしはその娘に問いつめました。当然でしょう、主であるあなたの部屋から猫は出て来たのです。そうしたらその娘、自分の猫だと言ってのけたのよ。ほとほと呆れたわ。どういう神経をしてるのかしら。勝手に動物をこの館で飼うのも恐ろしいことだけど、それを主の部屋にまで連れて来るなんて、常識知らずにもほどがあります」
「では……、では……、暇を出したとは……?」
 目の前が一気に暗くなり、そのまま魂ごと闇の中へ沈み込みそうになる。意識が遠のきそうになるのを懸命にこらえ、リチャードは母親に尋ねた。自分の予想が当たらないでいてほしいと、彼はこのとき心から願った。
 グレースはハンカチを握り締めた手を、そっとリチャードの頬に伸ばす。優しい母親を思わせる仕草ではあったが、ハンカチを手離す気は毛頭ないらしい。
「あなたに何かあったら大変ですもの。そんな礼儀も弁えない娘は、即刻首を言い渡してやりました。よかったわ、早くに気がつくことが出来て」
「な……」
 温かい微笑みとともに、猫の世話を請け負ってくれたラウラの顔が、浮かんで消えた。無意識に抗議をしようとしたリチャードから、グレースはさっさと視線を外すと再び部屋を仰ぎ見る。
「それにしてもこの部屋、少し臭うわね。あの猫のせいかしら。全くとんでもない娘だったわ」

「お母様……」
「何ですか」
「ーー猫、はどうしたの?」
「猫?」
 クンクンと匂いを嗅ぐ夫人の眉間に、見る見る皺が寄っていく。彼女は臭いと呟きながらハンカチを鼻に当てた。
「……ラウラが連れていた猫だよ」
 自分の猫だとはどうしても言えなかった。優しい侍女はリチャードを庇ってくれたのだろう。
 もしも事実を知ってしまったら、公爵夫人は彼を一生閉じ込めてしまうかもしれない。自由な遊ぶ時間など根こそぎ奪い、それこそ不自由な山奥にある学校にでも、今すぐ放り込んでしまうかもしれない。
 侍女は両親にあまり顧みられることのない少年を、慈しんで世話をしてくれていた。彼女の中にある母性愛が、少年から最後の砦である友人達との時間を守り通してくれたのだろう。

「猫?」
 公爵夫人は眉を上げて息子を見据えた。彼女はやがて思い出したように「ああ」と話を続ける。
「その猫なら従僕に言いつけ処分させました。当然でしょう? 出て行った娘には連れて行くあてもないのだから」
「えっ?」
 処分ーーした?
 息が止まりそうになる。さらりと告げられた言葉の意味が理解出来ない。
「いいですか? 今は大勢のお客様がお見えになっているのです。我がグルム公爵家があんな汚い野良猫を飼ってるなんて、お客様方に思われでもしたら堪らないわ。そうでしょう?」
「処分て……、どうやって?」
 がたがたと震えながらリチャードは聞いた。だが、本当は聞きたくなかったのかもしれない。
 寄り添うようにこの部屋で暮らしてた、可愛い猫が思い出される。リチャードのベッドで丸くなり、安心しきったように眠る姿や、お腹がすいたと纏わりついてくる姿。
 窓際のカーテンの陰には、いつだったか大きな落とし物を残しておいて、見つけた侍女が悲鳴を上げながら片付け、リチャードは済ました表情の猫を笑いながら抱きしめた。

 それらはもう二度と、見ることが出来ない光景なのだ。

「知りませんよ、そんなこと。人目に触れないようにしてと言っただけです」

 どこか早口で公爵夫人は捲くし立て、この話題を終わらせようとした。自分は残酷なことを命じてはないと、手を下したのはあくまでも従僕であると、彼女は言いたかったのかもしれない。
 どちらにしてもリチャードには関係なかった。もう彼を待つ小さな生き物はいない。まるで弟のようだった存在は。
 庇護を求める小さな猫と優しい侍女。
 ささやかではあったけれど、愛に溢れた生活は奪われてしまったのだ。この目の前に立ちはだかる母親によって。

「リチャード。わたしがこの部屋に来たのは、そんな話をするためではありません」
 しかし、公爵夫人は彼に、更なる追い討ちをかけようとしていた。
「友人は選びなさい。この言葉の意味分かりますね?」




「つまり、あの女は当時の僕から大事なものを三つは奪った。侍女と猫と、ーーそして友人だ。はっきり言えば全てと言える」
 リチャードは鼻で笑う。気の抜けた耳障りな笑い声は、気味が悪いほどであった。

 その頃の彼にとって、それが全てだったとは。アリエルは幼いリチャードの狭く小さな世界に、胸を痛めた。確かに、全てをなくした彼の悲しみは大きいものだったろう。大人が考えるより、深い傷を負った筈だ。

「僕にはしばらく母の侍女達の見張りがついた。当然のように自由時間は削られたね。せっかくラウラが身を挺して守ってくれたのにさ、何の役にも立たなかったんだよ。おかしいだろ」
 虚ろな目をしたまま青年は、手直にある机の表面を撫でる。まるで愛しい恋人の肌に触れるような、しっとりとした妙に色気のある指使いだった。
「何日かしてようやく見張りの目を盗むことが出来た僕は、必死になって彼らの元に急いだよ。約束を守ることが出来なくなったと、そのことだけは伝えなくてはと夢中だった」
 リチャードは笑うのをやめて目を閉じた。
「ーーが、必要なかった。彼らはとっくに自分達の親を通じて聞かされていたんだろう。僕とは二度と遊ばないようにとね、ひょっとしたら手酷い折檻も受けたかもしれない。それを調べる手立ては、僕には残されてないけど」
 窓から入ってきた風がリチャードの髪の毛を揺らす。彼はうるさく舞う前髪をかき回し息をついた。
「あの日、色んな場所を訪ねて走り回った。秘密基地や奇妙な大木。一緒に泳いだ川に虫を取った林も。初めて出会った道縁の木の根元にさえ足を運んだ」
 青年は悲しげに眉を寄せる。
「だが、どこにも彼らの姿はなかった。僕が友人達の遊ぶ場所さえ、奪ってしまったんだ。きっと僕と遊ぶことを禁止された彼らは、僕がやって来る危険がある遊び場は、避けるようになったんだろう。そのことにやっと思いついて、僕は理解した。もう二度と友達には会えないんだとーー」

 リチャードのせつなげな瞳がアリエルを貫いた。
 傷ついた幼い少年が、現在の彼に重なる。彼の全てを許してしまいたくなるほどだった。

 だけど、
 だけど「何故?」という思いも同時に湧いてくる。

「リ、リチャード様のお辛い境遇にはご同情申し上げます。ですが……、ですが何故大人になられた今でも、お母様をそんなに嫌われてらっしゃるのですか?」

 リチャードの冷たい視線が、アリエルを射抜くように見つめていた。

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