Chapter 3-24


家族とは 2


「僕は異常性癖の持ち主です」
 リチャードが静かに切り出した。
「女性を痛めつけ、苦痛に歪む表情を見て快感を得る。そう、僕はサディストなんです」
「ーー何を言うの、おやめなさい!」
 突然部屋の隅から悲鳴のような声が上がり、彼の言葉を遮った。上質な布張りの肘かけ椅子を倒しかねない勢いで、公爵夫人が立ち上がったのだ。ドレスに押されてぐらぐらと揺れた椅子が、倒れることなくかろうじて止まる。
 興奮したグレースの荒々しい声に、アリエルはびっくりして彼女のいる方へ視線を向けた。

 今まで一言も発していなかったグレースは、対峙する公爵と息子を、離れた場所から息を詰めて見守っていたようだ。そのため、遅れて室内に入って来たアリエルには、彼女の姿が目に入ってはいなかった。
 だが、リチャードが告げてきた告白の内容に、グレースは耐えられなくなったのだろう。それで思わず、息子の話に口を出してしまったらしい。
 夫人は赤く紅潮した頬を歪め唇を戦慄かせながら、きつい眼差しでリチャードを睨みつけていた。
「わ、わたし達をからかうのもいい加減になさい! なんておぞましいことを口にしているのです」
「からかう?」
 冷静に聞き返すリチャードと、対比するかのように体を震わせるグレース。公爵が妻を気遣って、彼女の背後へと近寄りそっと肩に手を置く。夫の行為に勇気づけられたのか、グレースは更に大きな声で息子を糾弾した。
「ええ、そうですよ。なんて恥知らずな暴言を吐いてるの。グルム公爵家の嫡男ともあろう者が」
「からかってなどいませんよ。全部本当のことですから」
 リチャードは母親からついと目を逸らして、その横にいる父親と視線を合わせた。落ち着いた眼差しは、悟りを開いたかのようにあくまでも静かだ。
「僕が今回、数年振りに戻って来たのだって、それでへまをしてしまったからなんです。たちの悪い輩に関わり合ってしまって、王都にいられなくなってしまった。そのせいで、仕方なく戻って来たようなものなんですから」
「何ですって?」
「最初はいつもと同じだと思ってたんですよ。ちょっと目を引くきつい顔立ちをした娘だった。その娘に話を持ちかけ、部屋へと連れて行った。そう、いつものように」
「な、な、な……」

 リチャードは偶然知り合った女性を、自分の部屋へ連れ込んだと白状した。しかもそれは一度きりのことではなく、何度も繰り返されていたことだとも。

「あ、あなたは何を……言って……」

 彼の乱れた私生活の一端は、グレースの想像を遙かに越えるものだったに違いない。夫人の驚きと怒りは止めようがないほど、ますます助長させられていった。

 それはそうだろう。いくら親元を離れて一人で暮らしているとはいえ、彼はもう分別の分かる大人の男である。公爵家の後継者としての、義務や責任ぐらい充分自覚している筈だ。
 そんな大事な立場を抱える男が、自ら醜聞を招くようなふしだらな日々を送っているなどと、いったい誰が思うだろうか。
 夫人の恐ろしく青ざめた形相に気がついたリチャードは、苦い笑いを浮かべ口元を緩める。
「ああ、安心して下さい。僕が誘うのは素人じゃない。ビジネスで春を売る娼婦達です。彼女達は僕らの世界になど詳しくはありません。ですから僕の素行が知れ渡る危険はない筈です」
 公爵夫人はもう何も言えなくなって口を噤んだ。彼女の震える肩を、夫であるジェームズがしっかりと支えている。

「お前はいつもそうやって、人知れず自分の趣味を満足させていたのか?」
 笑みの消えた父親の冷ややかな顔に、さすがのリチャードも表情を一変させた。彼は苦しげに眉を寄せて言葉を漏らした。
「ーーはい。いつもそれで事足りていました。一時、憂さを晴らせば、また自分の部屋に籠もって静かな生活に戻る。今までそれでうまくいってた。ただの一度だってトラブルに巻き込まれたことはなかったんです。だから慢心していたのかもしれない。僕はいつものようにその娘と楽しんだ。傷ついた娘のためにたっぷりと礼金も弾んでやって、何の問題もないと思っていた」
「だが、違ってたんだな?」
 公爵の冷たい問いかけのあと、リチャードは小さく笑って頷いた。
「そうですよ。それからしばらくして異変が起こった。突然、あいつらがやって来たんだ。ご存知のように僕の住む王都のフラットは高級なものでもなく、周りには人手も手薄です。敵は数日かけて僕の身辺を探っていたのでしょう。バートが出かけた僅かな時間を狙って、押し入ってきたんです」
「何だと?」
「実は僕が最後に買った娼婦には、裏に大物がついていたんです。そいつは稼ぎ頭である商品を痛めつけた僕に、相当腹を立てたらしい。何しろ売り物の体を傷だらけにしてまったんですからね。当然かもしれません。それで奴らは報復に現れた」
 気色ばむ公爵の声にリチャードの声が被さった。公爵はそれ以上口を挟むことはなく、唇を曲げて引き結ぶ。
 静まり返った室内は異様な空気に包まれていた。その中をリチャードの告白は続く。
「僕は無理やり部屋から連れ出され、奴らのボスの元に連れて行かれた。そこで手酷い暴行を受けました。命まで奪われなかったのは、運が良かったからに過ぎないでしょう。殺されていてもおかしくなかった。そしてゴミくずのように通りに放り出されました」
 リチャードは言葉を切って公爵に問いかけた。
「ジュールから僕の話をお聞きになったのでしょう?」
 ジェームズが躊躇いがちに頷く。
「……ああ、お前が彼に話したいきさつは、やはり口から出任せだったのか」
 リチャードは薄く笑った。
「いいえ、全部が嘘ではありません。実際そのあとは、ジュールに話したことと変わらない。何とか流しの馬車を見つけここまで帰って来た。王都のフラットには恐ろしくて戻れなかったんです」
「バートが心配するとは思わなかったのか?」
「僕はよくあいつの留守中にふらりと抜け出していたし、それほど驚きはしなかったでしょう。それにここへ戻って来れたら、父さんから連絡をしてくれた筈だ。そうでしょう?」
「そうか……」
 リチャードの帰郷の真実は、彼の両親にとって思った以上に壮絶なものだったようだ。公爵は苦渋の表情で呻き声を上げたきり、黙りこくってしまった。

「どうしてなの?」

 重苦しい沈黙を破ったのは、又しても夫人のグレースだった。
 彼女は夫の手の中から逃れて金切り声で叫ぶ。
「どうしてそんなことをするようになったの? いったい何故、あなたがそんな恐ろしいことを」
「ーーどうしてですって?」
 リチャードのこめかみがピクリと引きつった。瞳には今まで見えなかった凶悪な光が浮かんでおり、唇が苛立ちで震えている。
「あなたがそれを聞くのですか」
 彼の声は凍りつきそうなほど、冷え冷えとしていた。母親に向ける眼差しは、屋根裏部屋でのリチャード自身を彷彿させるがごとく冷たい。

 どうしよう。
 アリエルはどうにもならないジレンマに身を焦がしていた。
 この場では彼女だけが知るリチャードの本心が、今まさに暴かれようとしている。
 今すぐ走り寄ってリチャードの口を塞ぎ、彼の言葉がグレースを斬りつけてしまうのをやめさせたかった。出来ることなら、いや、公爵さえいなければ実際行動していたかもしれない。
 でも、彼女は動くことも出来ず、その瞬間を待っているしかなかった。

 (どうしたらいいの、リチャード様はあのことを言ってしまう)

 あの、長年に渡って蓄積されたグレースへの恨みの数々を、全て吐き出してしまうのか。
 そんなことになってしまったら、親子は本当に断絶してしまうかもしれない。リチャードの恨みは晴れることもなく、それどころか、新たにグレースの中に息子への憎しみが生まれることだって有り得る。
 そんなことだけは阻止しなければならない。
 ならないのにーー。
 それなのに、アリエルにはどうすることも出来ないのだ。ただの一介の侍女である彼女には、主のすることに異論を挟むことなど出来る筈もなかった。

「僕から大事なものを、全て取り上げてきたあなたが言うことか?」
「な、何よ……」
「友人も、可愛らしい弟のような存在も、優しくて暖かい侍女も全て奪っていったくせに」
「何、言って……」
「何の罪もない一人の女性を惨たらしく鞭で打ちつけておいて、館から追い出したあなたが言うのですか?」
「あなたはさっきから何を言っているのです!」
 たたみかけるように自分を非難してくる息子に業を煮やした夫人は、苛立ちを露わにして怒声を上げる。グレースのこんなに荒れた声は、アリエルも初めて聞くものだった。
 リチャードは呆れたように首を振って、母親を蔑んだ目で見返す。情のまるで通ってない母子の姿は、見ているこちらの胸までえぐってくるようであった。
 フンとリチャードが鼻を鳴らして、母親の怒る様を見下して呟く。
「きれいさっぱり忘れているなんて、アネットも浮かばれない」
「……アネット?」
「ええ、僕の守りをしていた少女です。最終的にはこの館で働いていた。思いやりに溢れた、明るくて優しい女性だった。あなたはその彼女を痛めつけて解雇したんだ。たいしてよく調べもしないで、僕と彼女を疑った。僕達の間には何もなかったのに、彼女は何もしていなかったのに、酷い仕打ちをした挙げ句切り捨てたんだ。そんな彼女を、アネット・バウリーを、あなたは本当に忘れてしまったのか?」
 大きな声を出したリチャードは、荒い呼吸を繰り返して目の前の女性を睨みつけていた。
 グレースは頭を押さえてふらふらと後ずさりすると、そのまま倒れ込みそうになる。力をなくした彼女の背中を抱き止めるように、公爵が手を貸して崩れ落ちるのを防いだ。
「アネット・バウリー……、え、ええ、覚えているわ……。その娘は確か、あの頃いた家政婦が、手癖の悪い侍女がいると言ってきて……」
「驚いたな、今度は他人のせいにするのか? 家政婦だって、びっくりだ」
 かんに障る笑い声を上げ出したリチャードに対し、夫人は何も言わない。うなだれたグレースの表情が、普段の彼女とあまりに違いすぎてアリエルの胸を締めつけた。
 恐れていたことが現実となってしまったのか。母子が和解することは、永久になくなってしまったのだろうか。

「本当だよ、リチャード。お母様は本当に、何も知らなかったんだ」

 静かな声がリチャードの醜い嘲笑を止める。
 夫人を背後からきっちりと支えた公爵が、悲しげに息子を見つめていた。
「嘘だ……、何言って」
「嘘じゃない。その娘のことなら覚えてる。当時わたし達は彼女の引き受け先を探して奔走したからね。お母様は信じていた家政婦に裏切られ、それは凄いショックを受けていた。お前には信じられないかもしれないが、あの件は、家政婦がお前のお気に入りの侍女を疎んじて、全て一人で仕組んだものだったんだよ。お母様は家政婦の言うことを信じたにすぎなかった」
「そんなことあるわけないだろう。この人が、たかが使用人の言うことを信じるなんて」
「それだけ信用してたんだよ。古くから仕えてくれてたからね。あの家政婦の裏の顔をわたし達は見抜けなかったんだ」
 公爵の真剣な眼差しにリチャードも言葉をなくす。ジェームズが嘘をついていないことぐらい、アリエルにも分かった。
「その娘が大怪我をして館を追い出されたことに気がついたわたし達は、彼女を信頼出来る人間に預け、治療の面倒をみた。体を治した彼女は、新たな職場へと元気に巣立って行ったよ」
 ジェームズは妻を抱きかかえ、リチャードを真っ直ぐ見つめる。
「今ではとっくに結婚して子供もいる母親だ。お前のことなど思い出しもしない、忙しい毎日を送っているだろう」
「結……婚?」
「ああ、そうだ。彼女はとうに新しい人生を歩いているんだよ。それなのにお前は? いつまで過去ばかり見て立ち止まっている気なんだ」
「僕は……」
「お母様だってアネットの件では、深く反省したんだ。だからあのあとすぐに家政婦を交代した。今の家政婦とは適切な関係を築いているだろう? それにあれ以降、無意味な解雇はしていない」
「嘘だ、この人が反省だなんて……。あんなに簡単に何でも切り捨てていったくせに、有り得ない」
「本当だよ。事実今度のことだって、ミス・オルドに暇を出す気はなかったのだから」
 公爵の柔らかい視線がアリエルを優しく捉えた。リチャードは思い出したかのように、アリエルの方へと顔を向ける。
「暇? アリ……エルが?」
「そうだ。彼女はお前のために、グレースに対し秘密を抱えていたんだぞ。過去のグレースならきっと彼女を許せなかったことだろう。だが今のお母様には、その裏にある理由に思いを寄せることが出来る。ミス・オルドが何の理由もなく、自分をたばかるわけがないと分かっているんだ」
 リチャードは力をなくして膝をついた。
「だけど……、だけど、僕にはいきなり令嬢達を送り込んできたじゃないか。何の相談もなく、いきなり……だから僕は……」
 公爵は呆れたようにため息を漏らす。
「当たり前だろう、お前は息子だ。他人とは違う。親を騙して面倒なことから逃げてばかりの子供に、優しくしてやる必要なんかないだろう」
 夫の胸で嗚咽にむせぶグレースを抱いて、公爵は静かに続けた。その眼差しはどこまでも暖かい。
「確かにお母様は思い込みが激しくて、どちらかと言えば厳しい性格の人だ。たまには優しく微笑んでいればいいのにと、わたしも思うことがある。だがお母様は過去の自分を省みて反省も出来る、素晴らしい女性でもあるんだ。残念なことになかなか素直になれなくて、お前にも冷たい態度でしか接することが出来ない、かわいそうな人だがな。だけどなリチャード、人は変われるんだよ。お母様だって、以前とは違う人間になっているんだ。だから、お前も。お前も変われるとわたしは思う」
「父さん……」
 顔を上げたリチャードの頬には、いくつもの光る筋が見える。
 涙の膜が邪魔をしてはっきりしないアリエルの視界にも、その輝きが見て取れた。
「すぐには無理だろう。だがわたしは信じてるよ。お前達が、いつか心から笑い合える日がくることをな」

 公爵が手を差し出し、リチャードを抱え起こした。背の高い息子は父親の肩に窮屈そうに顔をうずめて、幼い少年のようにいつまでも泣いていた。
 両腕に妻と息子を閉じ込めて、公爵は二人をしっかりと抱き締める。
 三人のその姿は、アリエルの目に、紛れもない一つの家族として映っていた。

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