Chapter 3-22


想いの向かう先


 いつまで待ってもジュールの唇は降りてこなかった。
 アリエルは待ちきれなくて薄く目を開けてみる。
 グリーンの瞳に戸惑いの色を色濃くのせた青年が、目を見開いたまま動きを止めて彼女を見下ろしていた。

「ジュール……?」
「あっ……」

 彼は彼女の視線が自分にあると気づくと、ハッとしたように表情を和らげ笑顔を見せた。
「ど、どうしたんだよ、アリエル。キスをせがむなんて子供みたいだね」
 焦ったような口振りでアリエルをからかって、ジュールは彼女の額に子供にするような軽い口づけを落とす。それからまるで、聞き分けのない幼子を諭すように、猫なで声を出して宥めてきた。
「これで落ち着けたかな? もう、大丈夫だよ」

 アリエルは呆気にとられて目の前の青年を見上げた。
 彼女の顔を覗き込む柔らかい眼差しが、すぐ側にある。その状況はさっきまでと何ら変わってはいない。何一つ変わっていないのに、二人を取り巻く雰囲気がまるで変わってしまっていた。
 彼には彼女の表情が丸分かりの筈だ。
 今のお遊びとしか思えないキスを相手がどう感じたのか、分かりすぎるほど近くにいる。なのにこんな交わされ方をされてしまうなんて。
 にっこりと微笑む青年の顔が、歪にゆがんで見えるのは何故だろう。ジュールではなくアリエルの方が、もしかしておかしいのだろうか。
「違うわよ!」
 吐き捨てるように出したアリエルの言葉に、ジュールの笑顔が崩れた。彼は消え去ろうとする笑みを取り繕うためか、ぎこちない表情を浮かべている。
「違うって何が……?」
「額にじゃない、わたしは唇にほしいの」
 アリエルはジュールの頬を両手で挟んで、泣きそうになりながら懸命に訴えた。
 子供にするような、挨拶の一種のようなものではなくて、愛情を込めた恋人同士の交わすキス。彼女が彼に願ったのはそんなキスなのだと。

 だが、彼から、優しく甘いそれが降りてくることはなかった。
 代わりに彼がくれたもの。それはーー。
 突然、自分への想いをぶつけてきたアリエルへの困惑と、どうにかこの場を切り抜けようとする焦りを孕んだ言葉。
「何……、言ってるんだ、アリエル。僕らは友人同士だろう?」
 カラカラに渇いたジュールのかすれた声が、虚しく辺りを漂う。先ほどまであんなにアリエルの身をとろかさせてきた甘い響きは、一気に彼女の熱を奪っていき、酷くよそよそしい風を寄越してきただけだった。

 その瞬間、彼女は理解した。
 自分は間違えてしまったのだと。
 彼の行為を自分に都合よく、読み違えてしまったのだと。
 いつもいつも、ジュールの過剰なほどの親しみを込めた言動を、誤解してはいけないとアリエルは戒めてきていた筈だった。事実、それはつい最近まで成功していたのだ。
 彼には故郷に婚約者がいて、侍女仲間のアンナとは大人同士の関係まで築いている。
 その際どい事情にまで彼女は精通していた。何故なら、ジュールから聞かされていたから。アリエルを友人だと信頼していたジュールから、馴れ初めから経過から危うい話に至るまで、実に様々なことを打ち明けられていたからだ。
 ジュールはアリエルに対し、友人以上の気持ちなど持ってはいない。
 彼にとって一番大切なのは婚約者の彼女で、夜を度々共に過ごすアンナでさえ、割り切った関係でしかなかった。

 分かっていたのに、分かりすぎるくらい分かっていた筈なのに。

 それなのにーー、

 それなのにどうして、間違えてしまったのか。


「あ、アリエル……」
 ジュールの目が怯えたように揺らいでいた。
 アリエルはぼんやりと、揺らぐグリーンの瞳を見つめ返す。彼女は口元にグッと力を込めて笑顔を作った。
 絶対に負けられない。これから一世一代の演技をして、彼を納得させなければならないのである。
 アリエルは覚悟を決めて口を開いた。

「何よ、あなたのその顔。間が抜けてるわね」
「間が……抜けてる?」
「そうよ、たかがキスぐらいで慌てちゃって」
 アリエルはジュールの胸を突き放した。呆気なく離れていく彼の体。暖かかったぬくもりは、彼女のもとから幻のように消えてしまった。
「ちょっと甘えただけよ。あなたがあんまり優しいから、どんな反応をするのか見たくなったの……」
 何も言わないジュールに背を向ける。その足でベッドの上から素早く降りて、彼から距離を取った。
「からかってごめんなさい。でも友人なんだからこれぐらい、許してくれるでしょう?」
 しばらくして僅かに身じろぎをする音と、低い呟きが後ろから聞こえてきた。
「……何だ、からかってたのか、……びっくりしたよ」
 ため息と共に届けられた慣れ親しんだ男の声。
 でも、その声は驚くほど、遠くから聞こえてくるようだった。

「そうよ、本気じゃないわ……」
 アリエルは出口を目指して歩き出す。後ろを振り返ることは出来ない。今の彼女には彼の顔を見る勇気など、ほんの少しだって湧いてこなかったのだ。
「わ、わたし、もう行くわね。早く戻って支度しなきゃ」
「……うん」
 ジュールは彼女を追いかけては来なかった。彼はいまだベッドの側にいるのだろう。
「今日はありがとう。あなたが来てくれて……、本当によかった」
 やっとの思いでそれだけ言うと、アリエルは彼を置き去りにして走り出した。ジュールからの返事を待つこともなく。

 走って走って息が切れるほど走って、いつしか涙と嗚咽が止まらなくなっていたことにすら、彼女は全く気づいていなかった。

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