Chapter 3-11


屋根裏へのいざない


「グレース様は本当に、心の底からリチャード様をご心配されているのです。あの方はご容体はおろか、詳しいことは何一つ知らされていらっしゃいません。リチャード様がお戻りになられて幾日になるでしょうか。その間ずっと、母親であるにも関わらず、蚊帳の外におかれていらっしゃったのです」

 アリエルは大きく息を吐き出して、喘ぐように新たな空気を吸い込んだ。
 興奮して捲くし立てた上に、主相手に立場もわきまえず詰め寄ってしまった。彼女にもこれが出過ぎた真似だという自覚はある。今の行為はリチャードを怒らせたかもしれない。そう思うと、彼の顔を見る勇気すらなくなりそうだった。

 だが、ここで負けてしまったら全てが無駄になってしまうのだ。
 グレースとリチャードの橋渡しになれたらと、周囲の目を欺いてまでも努力してきたことが、水の泡となってしまう。それだけはどうあっても避けなければならない。

「どうか、お顔を見せて差し上げるだけでもよろしいのです。それが無理なら、せめてお手紙だけでも……」
「あの人が僕を心配してる?」
 頭を伏せて懇願するアリエルの肩に、リチャードは小さな呟きを落とした。
「は、はい。とても案じてらっしゃいます。奥様はリチャード様を心からーー」

 勢いよく顔を上げた彼女は、優雅な笑みを湛える青年が放つ鋭い眼光に晒され、息を飲み込んだ。こちらを見据えてくる厳しい眼差しは、柔らかい口元と反して少しも笑ってはいない。
 思わず口を噤んでしまった彼女から目を逸らすと、青年は独り言を漏らした。
「やはり、そうだったんだ。そうではないと思っていたが」
 リチャードは額を押さえ小さく笑った。手の陰で、完全に目元が隠れてしまい表情はよく分からない。だが、もしも見えていたとしても、アリエルにそれを確かめるすべはなかっただろう。
 彼女はすっかり気が動転して、再び俯いてしまっていた。
 リチャードを不愉快にさせてしまったと、今し方の行動を悔やんで自分を責め立てていたのである。

 いくら友人になろうと言われたからと言って、彼女とリチャードの間には純然たる立場の違いがあった。それは、おいそれとは、乗り越えられるようなものではなかったのだ。
 それなのに、そんな簡単なことにも気づかずに、分を逸脱する行為を許されると思ってしまったなんて。 愚かにもほどがある。リチャードとの間に芽生えていた僅かな絆に、たった今ひびが入ってしまったかもしれないのだ。

「も、申し訳ございません。わ、わたしは……」
「アリエル、やめてよ」
 彼女の震える肩にそっと手が置かれた。
「僕は君の気持ちが分かったと言っただけだ。謝ったりなんかしなくていい」
「で、ですが……」
 顔を上げたアリエルの前で、リチャードは首をすくめて周囲に視線を向ける。
「それより、ここは空気が悪いと思わないか」
「えっ?」
 彼は、沢山飾られている花瓶の花々を忌々しげに睨みつけた。まるで敵《かたき》でも見やるような、憎しみさえ感じる視線だった。
「甘い匂いが強すぎて窒素でもしそうになる」
 リチャードはそう言い捨て、ソファーから立ち上がりシャツの釦を止め始めた。だらしなくはみ出していた前裾はスラックスの中へ押し込む。それから肩からずり落ちていたサスペンダーも、元通りの位置まで両方とも上げた。
「すまなかったね、レディの前で。気を悪くしたろう?」
 彼は照れ臭げに眉を下げ頬を緩めた。その表情はいつもと同じく、とても魅力的だった。
「い、いいえ」
 アリエルは首を横に強く降って、彼の懸念を払拭する。そんなことより、彼女は彼の気持ちが気になって仕方なかった。
 笑みを見せる目前の男性。彼は怒ってないのだろうか。
 図々しく願いを申し出たアリエルをどう見ているのだろう。以前と同じように友人だと思ってくれているのか? それとも……。
 怖ず怖ずと上目遣いで視線を合わせるアリエルを、リチャードは柔らかく見返してくる。その顔は今朝までの彼自身と、何ら変わらないようだ。
(もしかして、……怒ってらっしゃらないの?)

「ねえ、アリエル。今から冒険に行かないか?」
「冒険?」
「そう、前に言ったよね。屋根裏を一緒に探検しようって」
「え、ええ……」
 それは覚えている。あれは確かリチャードと、友人に成り立てた頃に話し合ったことだ。あの時リチャードは目を輝かせて、アリエルを子供っぽい悪戯に誘ってくれた。実現するとは到底思えなかったが、もしもそんな機会に恵まれたら、どんなに楽しいだろうかとアリエルも想像しては心踊らせた。

 だが、やはりーー

 今まさに行こうと彼が口にしたけれど、無理だとしか答えられない。
 パーティーが始まるのはまだ少し先ではあるが、会場での接待を任じられている身では、それを放り出して遊んでいる訳にはいかないのだ。
 けれど、断りの言葉をリチャードに告げるのは、どうしても気がひける。何しろアリエルには、先ほどの負い目があったから。

(どうしよう。こんな時、ジュールがいれば……)

 きっとジュールなら、アリエルには言えない拒否の言葉でも、主相手に歯に衣着せぬ発言でもって易々と言ってのけただろう。彼には簡単なことだった。付け焼き刃の友情を交わすアリエルと違って、二人は本当の意味でも友人なのだから。
 アリエルはこの場にいない青年を思い浮かべ、自分の不甲斐なさに嫌気がさした。
 どうしてすぐジュールに頼ろうとしてしまうのか。これではいつまでたっても独り立ちが出来ない。
 それにジュールは、もうアリエルを助けてくれないかもしれないのだ。彼にとって何よりも大切なのは、友人でもある主、リチャードただ一人なのだから。
 チクリ。
 悩みだけでなく、小さな痛みまでもが胸の中に生まれてくる。
 考え込んだまま、なかなか返事を返せないアリエルを、リチャードは訝しんで問いかけた。
「どうしたの?」
「あ、あの……」
 アリエルは思い切って、自分を覗き込むよう見つめてくる主に打ち明けた。
「実は今夜のパーティーで、お客様の接客を命じられているのです。それで、その準備がございまして、ですから……」
「なんだ、そんなこと」
 リチャードはあっけらかんと笑った。
「すぐに戻ってこれるから大丈夫だよ。パーティーまでには充分間に合うよう送るから安心して。ちょっとムシャムシャしたことがあってね。少しの間君に、僕のストレス発散に付き合ってほしいんだ」
「ですが……」
 果たして自分だけが遊んでいてもいいのだろうか。夫人が特別だと評したパーティーが開かれるのは、もうすぐなのである。その直前に公爵子息のためとはいえ仕事を抜け出して彼のおふざけに付き合うのは、あまり褒められた態度ではない。リンダは今もグレースについて仕事をこなしている筈だ。やはり断らなければならないだろう。
「頼むよ、アリエル。僕を助けると思って」
 リチャードはウインクをして顔の前で両手を合わせ、茶目っ気たっぷりなポーズを取った。
「付き合ってくれたら、君の願いについても考えてあげよう。それでも駄目?」

(えっーー?)

「本当ですか?」

 思わず大声を上げたアリエルに、リチャードはゆっくりと頷いた。
「ーーああ、本当だ。決まり、でいいよね?」
「え、ええ……」
 アリエルの願いを考えるということは、グレースと会ってもよいということである。彼の口にしたその一言は、彼女にとって何よりも大きな意味を持った。
「分かりました。ご同行致します」
「そうと決まれば」
 リチャードは緩く口元を崩してニヤリと笑う。
「急ごうじゃないか。今すぐ出発しよう」




 薄暗い物置の奥にある古びた階段を登ると、意外と明るい空間が開けた。小さな小窓から差し込む光の中に、アリエル達が入って来たため舞い上がった埃が、キラキラと幻想的に漂うのが見える。時刻はいまだ日の入り前で、太陽はまだ空にあった。だから明かりがなくとも、周囲の様子が分かるのだ。

 階段の先には広々としたフロアがあり、更に奥へと伸びる廊下の両脇にはいくつかの扉が見える。
 屋根裏はただっ広い空間でしかないと漠然と考えていたアリエルは、自分達の暮らす階下と、そんなに変わらない環境に驚く。

「ずっと昔には、屋根裏にも使用人の部屋があったらしい。これはその時のものだろう」
 疑問を感じて足を止める彼女に、リチャードが説明をしてきた。
「そうですか……」
 当時は今より沢山の使用人を抱えていたに違いない。この屋根裏部屋は、そういった者達の眠る寝室だったのだ。
 歩く度ごとに長い年月の間に変化した臭気と、カビの匂いが鼻をつく。
 閉め切られた窓のためか、蒸すような暑さにも参った。
 当時の侍女達もさぞかし苦労したことだろう。階下がいかに快適か、改めて実感してアリエルは密かに感謝した。
「暑いな」
 リチャードは額の汗を拭いながら足を速める。彼は横にある扉には興味もないのか、どこも開けようとせず一直線にどこかを目指していた。
 廊下には何も物が置かれてはなかったが、所々に穴やささくれがあり足元が覚束なかった。アリエルは必死で先を急ぐ彼のあとを追いかける。
「あの奥の部屋は、大きな窓があるんだ。少しあそこで涼もう」
 リチャードが指差す扉は、周囲のそれより少しばかり大きく貫禄があった。きっと、この辺りの部屋子達を束ねる役職者の部屋だったのだろう。探検と言いつつリチャードがアリエルを案内したかったのは、その部屋一つだけだったらしい。


 扉を開けると、かなりゆったりとした室内だと気がつく。
 リチャードは戸口に立って腕を広げ、アリエルに先に入るよう促した。
 足を一歩踏み入れ、彼が話していた大きな窓に目を止めた。
「窓を開けてきてくれるかい、アリエル」
「は、はい」
 部屋の中には、もう使い物になりなさそうな薄汚れた衣装箱や、机などがそのままに残されていた。窓辺へと近寄りながら、アリエルはそれらの遺棄物に目をやる。誰かの暮らしていた空間に勝手に入り込んで、そこを無造作に荒らしている自分。そんな背徳的な感覚に、知らず興奮が湧いてくるのを止めようがなかった。

 固くなった窓枠を無理やり動かして窓を開ければ、心地よい風が入ってきた。
「ようやく開きましたわ、リチャード様」
 リチャードを振り返ろうとして横にある大きな物体に気がつき、アリエルは体を硬くした。

 それは立派なベッドだった。

 およそこの部屋には似つかわしくない、広くて造りのしっかりした物だった。入り口の所からは、他の家具に邪魔をされ見えなかったようだが、存在を隠されていたのが不思議なほど、堂々と部屋を占拠していた。
 机などが今にも朽ち果てようとしているのに対し、このベッドだけは、今でも主の安眠を約束することが出来そうな、それほどの佇まいである。

「どうしたの、アリエル?」
 リチャードが笑いを滲ませ話しかけてきた。彼はまだ扉の側に立ったまま、こちらをじっと見ている。
「いえ。何でもありません」
 アリエルは慌てて彼に笑いかけた。

 部屋にベッドがあったから、それが何だと言うのだろう。
 ここは元々使用人が使っていた部屋なのだ。ベッドぐらい、むしろ残っていて当たり前だ。
 第一そんなことで動揺するなどリチャードに失礼である。彼はただ涼むために、アリエルをこの部屋に誘っただけで、そう、それだけで。


「なんだ、そのベッドに気がついたんだ。それさ、なかなかいい寝心地なんだよ」

 からかうような声が届く。
「それにね、少々暴れたって壊れたりなんかしない、丈夫な造りなんだ。素晴らしい拾い物だろう?」

 リチャードが薄笑いを浮かべて彼女を見つめていた。
 アリエルは彼の言葉が理解出来ず、呼吸も忘れてその場に立ち尽くす。

「え……、リ、リチャード様?」

「何だよ、その顔。君は僕のストレス発散に付き合ってくれるために、ここまで来たんじゃないか。いいかい、ここはね、館でも外れの外れになるんだ。だから大声を出したって誰にも聞こえない。安心して泣き叫ぶがいいよ、アリエル」

 リチャードは、アリエルの驚く顔をニヤニヤとさもおかしそうに笑って見返しながら、ゆっくりと扉を閉めた。
 いやに大きなガチャリという音が、二人しかいない部屋の中に重く響き渡っていた。

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