Chapter 3-6


秘密と言う名の甘い毒


 窓を開けると眩しい夏の日差しが部屋の中に入り込む。ふわりと風がそよぎ、窓脇に寄せられたカーテンを踊るように揺らした。

 アリエルは額に浮かんだ汗を軽く手で押さえて、一時風の戯れに身を任せた。
 荘園の周りを囲むように広がる森や湖の匂いが、微かに紛れ込んでくる。清々しい香りに包まれ気力が湧いてくるようだった。

 じっと動かないアリエルを、リンダが不思議そうに見ている。彼女と目が合って、気まずげにアリエルは苦笑いを返した。

 部屋の主であるグレースは、隣の寝室でいまだ就寝中である。
 二人は部屋の窓という窓を開けると、公爵夫人の衣装部屋へと静かに場所を移動した。
 ズラリと並んだ美しいドレス達の中を歩き、数点を手際よく選び出していく。皆、落ち着いたデザインではあるが決して地味ではない。どれも目覚めたグレースのために選んだ、今朝の装いであった。この中から公爵夫人本人が、最終的に一つを決めるのだ。

「ねえ、アリエルさん。今日も若様へお花をお届けするんですか?」
 突然手を止めたリンダが何気なく尋ねてきた。
「ええ、手が空いたらそうしようと思ってるけど……」
 目にも鮮やかなエメラルドブルーのドレスを手に取り、アリエルが答える。
「若様から何かお言葉を頂けましたか?」
 そこでアリエルはリンダの方を向いた。
「まだよ。若様はベッドから起き上がれないんですって。だからわたしのことも、まだ何も知らないのかもしれないわ」
 リンダの顔色が途端に悪くなる。
「だけど大丈夫よ。わたしが毎日奥様からのお見舞いを届けているんですもの。あちらも大変感謝をしてくれてるの。若様が起き上がれるようになったら、奥様とのことを必ず取り次いでくれると約束してくれたわ」
「本当ですか?」
「……ええ、本当よ」
 安堵したように頬を綻ばせるリンダを見て、アリエルは苦い思いを飲み込んだ。
 嘘をつくのは心苦しい。
 リチャードはとっくに起き上がれるほど回復している。部屋の中でなら彼は自由に過ごしているのだ。
 右足の捻挫があるので動き回るのはままならないが、病気ではないため臥せっているのは退屈らしい。部屋を訪ねるアリエル相手にジョークを連発して、ジュールに注意を受けながら楽しげにしているのを何度も目撃している。
 母のグレースに会うことなど、今の彼には造作もない筈だ。
 なのに会おうとしない。アリエルへの口止めをやめようとはしないのである。

 アリエルが彼らの部屋に赴くようになって、一週間は過ぎた。
 空いた時間にまるで人目を避けるように、彼女はリチャードの部屋を訪れている。それはお見舞いを届けたあと一旦舞い戻り、隙を見て再び訪問するというように、細心の注意を払う極めて慎重なものであった。

 その間リチャードは、友人になろうと言った言葉のまま、友情を感じさせてくれていた。
 王都での自身の暮らしやあちらで流行っていることなど、ユーモアを交えて楽しい話題を披露してくれる。気がつけば笑い声がこぼれ、心浮き立つ時間の中にいる。いつしかアリエルも、彼に対する敬意以上の、親愛めいた思いを感じ始めていた。
 いや、それだけではないのかもしれない。
 元々彼女にとって憧れの存在だったのだ。遠くから見かけることが出来たら満足する程度の、少女が抱く淡い感情に過ぎなかったけど。
 リチャードは彼女がこの屋敷に勤め始めた頃、数回見かけたあとは別宅へ住まいを移してしまい姿を見ることは叶わなくなった。
 仄かな憧れも薄い霧のように消えていき、現実的な今の自分に変わっていった。
 しかし、その夢の王子様が帰って来た。
 あの頃よりも逞しい大人の男になって、しかも目の前で彼女だけを見つめるという、信じられないほど身近な男性となって。

 アリエル達使用人にとって、主一家は特別な存在だ。直接の主である公爵夫人以外は声をかけて頂くことも稀なら、目を合わすことさえ滅多にない。

 それなのにーー

 二度と会うことなどないだろうと、覚悟していた男がすぐ近くにいる。アリエルに向かって深い親しみを込めた笑顔を見せてくる。

 これが有頂天にならずにいられようか。
 いや、誰でも我を忘れてしまうだろう。

 だからまずいのだ。自分で自分を厳しく戒めてないと、思わず喜びが外へと溢れてしまいそうになるから。
 しかも彼女はグレースを裏切っている。グレースだけではなく、リンダやその他大勢の人間を欺いているのだ。
 これは主に対する背信行為に他ならない。元はと言えば公爵夫人のためにと行動していた筈なのに、どうしてこんなことになってしまっているのか。
 いくらリチャードからの願いとは言え、息子を案ずる母親に真実を隠しているのは、義務云々以前に心苦しくていたたまれなかった。
 なんとかしてグレースとリチャードの仲を取り持てないだろうか。
 二人は実の親子なのだ。何かきっかけさえあれば、分かり合えるはずである。
 そのきっかけに、自分がなれるのではないか。アリエルはそう考えた。
 そうだ。自分は主を裏切っている訳ではない。公爵夫人の力になるために、今はやむ無く秘密を抱えているだけ。アリエルを通してでいい。リチャードにグレースの気持ちを伝えていけばいいのだ。
 彼はアリエルのような侍女にさえ、気を使う優しい男性だ。諦めず根気よく伝えていけば、母親の心を無下になどするような人ではないだろう。
 言い聞かせるが如く、強くそう念じた。
 リチャードへの友情と主への忠誠。アリエルは自分の心に浮かぶ相反する思いに蓋をして、深く考えないようにした。




「何をボーとしているの?」

 突然頬に温かい何かが触れてくる。
 俯き加減で考え事をしていたアリエルは、驚いて声をかけてきた人物を見上げた。
 グレーの瞳に彼女を映したリチャードが、不思議そうに顔を覗き込んでいた。頬に触れていたのは彼の長い指だったのだ。
 いつの間に、隣に移動してきていたのか。確か先程までは、いつものように向かい合わせでソファーに座っていた筈なのに。
 アリエルは丘に上がった魚のように、口をパクパクとさせて言葉をなくしていた。

 今日の彼は少年時代の思い出話を、冗談を交え聞かせてくれていた。アリエルはジュールと共にその話を聞いていたのだ、つい今しがたまで。だが今、隣にいるのはジュールではなくリチャードだ。
「な、なんでもありません」
 彼女は慌てて声を出すと、失礼に当たらないよう彼からそっと離れた。リチャードの指の感触が、肌を離れたあとでも残っている。
 ソファーから立ち上がり、窓際へと逃げるように歩いていった。カーテンの陰で、燃えるように熱い頬をこっそりと押さえる。
 どうしよう。
 ブラウンの髪をなびかせて柔らかく微笑む魅力的な青年に、変な女だと不審がられてしまう。
「今日は暑うございますね。窓辺の方が涼しくて気持ちいいですわ」
 外から入る風がうなじを冷やして抜けていった。
 彼女は深く息を吐いて呼吸を整えると、ソファーのリチャードの方へ振り向いた。
「ところで、あのジュールさんは? 彼はどちらへーー」
 リチャードの羽織った薄手のガウンが目の前にあった。アリエルは息を飲み込み、自分を見下ろす青年の視線を受け止める。
「……リチャード様、あ、あの……、お一人で歩いて大丈夫なのですか?」
 リチャードは捻挫をしていた筈である。歩く時は大抵ジュールが手を貸していた。だが今ジュールの姿はない。それなのにアリエルに気づかれることなく、彼は彼女に近づいていた。自分だけの力で歩いて。
 褐色の瞳を揺らして不安げに見つめてくる侍女に、青年は苦笑を漏らし表情を和らげた。
「驚いた? 大分痛みは引いてきたんだ。少しの距離なら、もう支えは必要ないかな」
 それからアリエルの行く手を阻むように、彼女の背後にある壁に手をかけた。そしてまるで寄りかかるかの如く、前に立つ。体で塞ぐように立ちはだかる男のせいで、彼女は狭い窓際から身動きが取れなくなった。
「僕の話に上の空だったね。君は絶対笑ってくれるだろうと思ったのに、面白くなかったかな?」
 困っている彼女に気づかないとでも言うのだろうか? 不自然なほど近い距離のまま、彼は平然と話しかけてきた。
「まさか、そんな……」
 アリエルは必死でこの状況に耐えている。
 どうしてリチャードは、近すぎるこの距離に違和感を感じようとしない。それにどうしてジュールは部屋にいないのだろう。
「子供の頃はこの館が大好きだったな。沢山部屋があるだろう? なかでも屋根裏は凄いんだよ。ちょっとした探検が楽しめるんだ」
「そ、そうなのですか。わたしはそちらには入ったことがないので……リチャード様は探検されたことがあるのですか?」
「随分昔にね。友達を誘って計画をたてたこともあった」
「お友達を?」
 アリエルの問いかけに、リチャードは顔を歪め視線を逸らした。突然の変化に彼女は戸惑う。
「今度ジュールも誘って三人で覗いてみるか? きっと楽しいよ」
 再び目を合わせてきた彼は、変わらない優しい笑顔だった。険しい表情を消した主にホッと息をつくと、アリエルは返事を返す。
「ええ、そうですね……」
 実現するとはとても思えない誘いだ。きっとリチャードも軽い気持ちで口にしただけだろう。
 だけど本当に、彼らと屋根裏を探検出来たらどんなに素敵だろう。それはどんなに楽しい時間になるだろうか。
 アリエルは儚い幻想を少しだけ胸に抱いた。


「おふざけはそこまでですよ」

 突然扉が開いて近侍の青年が入って来た。
 ブロンドの髪を揺らしながら、彼はきちんと畳まれた衣類を片手に抱え難なく扉を閉めて近づいて来る。
 そして窓際で寄り添うように立つ二人の横を、冷ややかな視線を投げかけ通りすぎた。
 なんとなく気まずくなって、彼女は殊更大きな声を出した。
「ジュール……さん、どこに行ってたの?」
「……リチャード様の洗濯済みのお召し物を受け取りに行ってました。君は、ぼんやりしていたようだけど」
 ジュールはムッとした表情のまま素っ気なく答えた。
「僕はサボりに来ている誰かさんと違って、真面目に働いてるんでね」
「それ、どういう意味なの?」
「別に、意味などないけど……。そうそう下でリンダさんに会ったよ。誰かさんと違って一生懸命働いていたな」
 こちらをチラリとも見ずに彼は言い捨てた。

 最近のジュールはいつもこんな調子だ。
 何かと言うとアリエルに突っかかって嫌味を口にしてくる。大抵リチャードの部屋にいる時は、仏頂面で彼女を邪険にすることが多い。四年も一緒にいるが初めてのことだった。
 ジュールの目には、そんなに浮わついて見えるのだろうか?
 リチャードに友人になろうと言われたぐらいで、いそいそとやって来る浅ましい女だと内心呆れているのか?
 アリエルは胸に広がる不快感で、どす黒い感情に全身が染まっていくようだった。
(確かに頻繁過ぎるかもしれないけど……。な、何よ、ジュールなんか……)

「ジュール、そんな言い方はよせよ。アリエルは僕のために来てくれているんだよ」
 若き主が俯く侍女の頭を守るように優しく撫でる。その光景を見て、近侍の青年は渋い顔をして黙り込んだ。
「やれやれ、ジュールがもう帰って来たね。せっかくアリエルと僕の二人きりだったのに」
 リチャードはおどけたように軽口をきき彼女から離れていった。すぐにジュールが空いた手を差し出すために近寄る。
 不機嫌な顔を隠しもしない近侍に、リチャードは笑いながら囁いた。
「君、ノックもせずいきなり部屋に入って来たね。どうしたんだ、らしくない。もしかして、ノックすら忘れるくらい別の何かで頭が一杯だったのかな?」
 意地悪くからかうような口振りだった。
「な、何を言って……」
 不意に、ジュールの手から抱えていた衣類がこぼれ落ちていく。彼は慌てて拾おうと手を伸ばしかけたが、片腕にリチャードの手が置かれてあり拾うことは叶わない。
「ジュール、君には黙っていたけど僕の足、もう大分いいんだ。部屋の中くらい一人で大丈夫だから」
 クスクスと笑い声を上げて、リチャードはソファーへと足を進めて行った。呆気に取られたジュールをその場へ一人残して。

「それにしても退屈だな」
 欠伸を噛み殺すと、若き主は倒れ込むようにソファーに腰かける。
「動けるようになったらなったで、体がなまって仕方ない」
「リチャード様、明朝でも外を歩いてみませんか? 朝の荘園は涼しくて気持ちようございますよ。わたしでよければお付き合い致しますが」
「……外を?」
 アリエルの提案にリチャードは難色を示した。
「僕は、外へは……」
「早朝でしたら、旦那様やお客様もまだお休みですわ。どなたにもお会いすることなく散歩を楽しめると思います」
 朝靄に煙るバラ園は美しい。色とりどりの花びらに目にも眩しい青葉。芳香な甘い香りに包まれると、別世界にいるような心地になる。
 こちらに戻って来てから、ずっと部屋で息を潜めるように過ごしていたリチャードの心を、慰め晴れやかな気分にしてくれる筈だ。
 それにあの場所でなら言えるに違いない。
 彼女の主、公爵夫人にお会いしてくれないかとーー。
 息を弾ませて勧めるアリエルを、リチャードは苦笑して切り返す。
「それで君は僕に早起きをしろと?」
「えっ? あ……、申し訳ございません」
 アリエルは顔が赤くなるのを感じた。
 よく考えてみれば、早朝などリチャード自身も就寝中であろう。そんなことに気づきもせず、素晴らしい考えだと思ってしまった自分が浅はかに思えた。

「リチャード様、あなたは毎日朝から『つまらない、つまらない』とよく口にされているでしょう? 早起きはお得意ではないですか」

 衣類を片付けてきたジュールが、ぶっきらぼうに口を挟んできた。
 彼はいつから聞いていたのか。二人の会話に割り込んできた侵入者に、アリエルとリチャードは目を見合せて小さく噴き出す。
 彼女の意見に同調するかのようなジュールは、最近では珍しいくらいだ。アリエルは知らず知らず、口元が緩んでいくのに気がついていた。
「それもそうだ」
 気を取り直して部屋の主は大きく頷く。
「アリエル、君の話に乗ろうじゃないか。明朝、散歩としゃれこもう」
「はい。必ずお迎えに上がりますね!」
「ーーええっと、お二人とも。念のため付け加えておきますが二人きりではありませんよ。わたしも同行致しますから」
 近侍の青年が浮かれたように盛り上がる主と侍女に、警告するかのようにピシャリと言い放った。


「アリエル!」
 リチャードの部屋を退出した彼女を、追いかけるようにジュールが出て来る。
「なあに?」
 彼女は意味もなく彼から視線を外した。
 近頃二人は、何故かお互いによそよそしく振る舞うことが多い。いつも間にリチャードがいるから、当然と言えば当然の結果ではあるが。だが、それを抜きにしても気まずかった。
 そう言えばリチャードの帰還以来、朝のバラ園にジュールはやって来ない。そんなことも関係あるのだろうか。
 しかし彼の方は何も気にしてないらしい。彼女の動揺など目にも留まらぬのか、腕を掴むと人目につかない陰へと強引に体を押し込めた。
「何をするのよ」
 有無を言わせぬ力づくなやり方に、思わず抗議の声が出た。顔を上げたアリエルは、目の前に迫る濃いグリーンの双眸に驚いて心臓を震わせる。
 透き通った宝石を思わせる緑の瞳が、燃えるような真剣な眼差しで彼女を見据えていた。
 激しい感情の炎をその目に見つけ、何も言えなくなる。全身から力が抜けていくようだった。
「何を考えてる?」
 ジュールの口調は変わらず硬い。咎めるようなきつい物言いは、主の部屋を出たあとでも健在だったようだ。
「えっ?」
「まさか本気で……、リチャード様の奥方の位置を狙っているのではないだろうね? いつものように、君が夢見る玉の輿のために」
「何ですって?」
 ゾッとするほど低い声。知らない男が彼女を蔑んで、皮肉を飛ばしてきたのかと思えた程だ。
 だが目の前にいるのは紛れもなくジュール。
 彼女が誰よりも信頼して心を寄せる大切な親友。
 なのにその親友が他人の顔をして、アリエルの自尊心を傷付ける言葉を平気で繰り出している。
 何故なのか。もしかして今の言葉の方が、彼の本音だからなのか?
 信じられない事態に混乱して、アリエルの考えは纏まらない。
「わ、わたし……、そんなこと考えていなかった。本当よ……、そんなつもりでは……」
 リチャードに対して玉の輿の夢を抱いたのは事実だ。だがそれは、四年も前に淡く夢見ていただけのこと。
 彼と現実に親しくなれたあとは、そんなことを考える余裕はなかった。公爵夫人とリチャードの不仲をなんとかして解消したいと、そのことに思考が奪われていた。
 むしろ、彼の優しさや親しみを見せる行為を、勘違いしてはいけないと自分を戒めていたほどなのに。
 だがジュールは、彼女を違った目で見ていたらしい。
「そうかな? いやに積極的に散歩に誘っていたじゃないか。第一君は、公爵夫人になりたいと言ってた筈だ」
 目前の犯罪者を検分でもするかのような冷たい視線が、心を呆気なく切り裂いていく。
「よく覚えているわね。確かに以前、あなたにそう話したことがあったわ……」
 可笑しくて笑い出しそうだった。
 このまま気がふれたみたいに笑ったら、彼はどんな反応をするだろう。
 ジュールは彼女の夢を、応援してくれてると今の今まで信じていた。だから何から何まで包み隠さず話してきたのに、なのに現実は違っていたようだ。

「やはり、そうなのか? だが、今度ばかりは諦めて欲しい。頼む、リチャード様はーー」

 お前はリチャードに相応しくないーー。
 彼の心が透けて見えた気がした。

「安心してよ!」

 力任せに男の腕を振りほどいて、無理やり拘束から抜け出した。足が縺れて転びそうになったが、構いはしない。
 掴まれていた手首に、うっすらとあとが残っている。そうまでしてジュールは、アリエルを主から排除したかったのか。
「リチャード様には、甘い夢など見ません! そんな身の程知らずなこと、絶対にしませんから!」
 体の向きを変えて一気に走り出す。
 ジュールの声が呼び止めてきた気がしたが、振り返ることなく走り抜けた。
 背後に流れていく壁や扉などの周囲が、滲んでよく見えなくなってもアリエルは走ることをやめなかった。




 呼び鈴に呼ばれリンダが部屋に入ると、グレースは眉間に皺を寄せ彼女に手招きをした。

「また、あなただけ? アリエルはどこにいるのかしら?」
「奥様、あの……、わたしには分かりかね……ます」
 リンダは頭を忙しなく下げたまま、ぎこちなく答える。緊張のあまりカチコチになっているようだった。その様子にグレースの皺は、いよいよ深く刻まれていく。
 彼女は落ち着きのないこの子供のような侍女に、時々どうしようもなく苛ついた。
 リンダは、家長である公爵が付き合いのある新興地主に、娘を頼むと半ば強引に押し付けられた侍女であった。
 素直な気立てのよい可愛らしい娘だが、素朴過ぎて洗練された行動が苦手らしい。それゆえ客人の前に出すのは憚られ、仕方がないのでグレースが側で目を光らせていた。
 それに比べもう一人の侍女には、安心して仕事を任せることが出来た。
 品のある立ち居振舞いと整った容姿。それだけでも充分だが、主の意を汲み取る能力にとても優れている。客にも評判のよい侍女でグレースには自慢だった。
 だがそれも何ら不思議ではないのかもしれない。彼女は落ちぶれているとは言え、男爵家令嬢の肩書きを持つ紛れもない貴族の一員なのだから。
 だから貴族の生活というものに熟知していても、少しも不思議ではなかったのだ。

 しかし、最近のあの娘はどこかおかしいところがある。
 度々姿が見えなくなることがあり、かと思うと何事もなく現れる。いったいどこで何をしているのか、行方知れずになるのだった。
 そう、ちょうど、リチャードが屋敷に舞い戻って来てからだ。あのあと、アリエルは毎日見舞いを届けるようになっていた。
 それが何か関係しているのであろうか?

 何度かリンダには、それとなく確認するよう言い含めてきた。なのにこの娘ときたら、いまだに何も聞き出せていないらしい。

「あ、あの……アリエルさんは……、多分どこかで、そ、そうですわ。きっと、お客様にご用事を頼まれている……のかと……」
「もういいわ!」
 しどろもどろに言い訳を始めたリンダに、グレースはきつい一言を投げかけた。
 半泣きと言った面持ちで、年若い侍女がその身を固くすくませる。
 溜め息をつくとグレースは、震える侍女に命令を下した。出来るだけ優しく穏やかな声で。

「アリエルが何をしているのか、今度こそきちんと見張ってなさい。いいですね、何か分かり次第報告をしに来るのですよ」

「か、かしこまりました。奥様」

 侍女の焦ったような声が広い室内に響いていた。

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