02
泣いても喚いても手に入らないものがあるとして
アンヌ=マリーは、貴族としては下位の家系に生まれたようだ。暮らしは恵まれているとは言えず、子供の頃の彼女は、近隣に住む平民の子たちと一緒になって遊ぶお転婆少女だったらしい。
アンヌ=マリーが初めて社交界へと顔を出したのは十五歳の時、彼女の美しさはあっという間に貴族たちの間に知れ渡り、一躍時の人となった。
特に当時の王太子であるアシル=クロードの目にとまってからは、彼女の周囲は一変してしまうことになる。
「はあ〜、今の私より年下じゃないの、当時の彼女。この状況じゃ私だって同じ間違いを起こしたかもしれないわよ」
思わず感想を漏らしてしまったセレナだったが、その声に返事が返ってきた。
「何、大声出してんだ?」
「あ、お帰りなさい、ジュスにぃ。今日も遅かったのね」
リビングで借りてきた本を読んでいたセレナは、疲れた表情で入ってくるジュスタンを出迎えた。ソファーから起き上がったセレナを見たジュスタンの目が、一際険しく細められる。
まだレポートの件を怒ってるのかと、セレナは肝を冷やしつつ彼に声をかけた。
「今夜はね、ポトフを作ったのよ。早速食べる?」
びくびくと愛想笑いを浮かべるセレナを、ジュスタンはにべもなく一瞥して顔を背けた。
「いい、食ってきた」
彼はセレナを無視して、自分の部屋へと引き揚げるべく踵を返す。だが、すれ違いざまに着ていたコートを彼女の体に投げつけた。
「風呂上がりに薄着でうろうろするなと言ってるだろう。風邪を引いたらどうする」
「ご、ごめんなさい。今すぐ上着を着るから」
素っ気なく冷たい言い方だった。最近のジュスタンがセレナに向けてよくする態度だ。
そんなに怒らなくてもいいじゃない、茹だっちゃって暑かったんだよ――と、セレナは言い返してやりたかったが、彼の厳しい表情を前に何も言えなくなる。
彼女は半袖シャツに短パンという、まるで夏の装いをしていた。確かにこれでは湯冷めをしてしまうだろう。
セレナはそばに置いていたスウェットの上下を急いで着込んだ。ジュスタンが投げてきたコートは、ハンガーにかけてラックに吊す。
セレナがバタバタと動き回るそばで、ジュスタンは頭を抱えて黙りこくってしまった。そのまま立ち止まる彼を不審がって注目するセレナに、独り言のような呟きを漏らす。
「すまない、セレナ。俺、苛々してた」
「ううん、いいよ。私が悪かったんだから」
暗い顔のジュスタンが小さなため息をついて、かすかに笑った。その顔を見て思わず赤面しそうになったセレナは、慌てて彼から視線を逸らす。
こんなことぐらいでうるさく騒ぎ出す心臓に腹が立った。いつになったらジュスタンの魔力から逃れることができると言うのだろうか。
「やっぱりポトフを食いたいな。用意してくれるか?」
「うん、待ってて!」
だが、諦めるより仕方ないのかもしれない。
こんなささいなことが嬉しくて仕方ないのだから。もはや完治は無理の難病にでも患ったと、観念するより他にないのだ。
そう、仕方ない。たまらなく嬉しいのだから。
最近ではセレナに文句しか言わなくなったジュスタンが、家に帰っても部屋に引っ込んで顔も見せなくなった一人きりの身内が、彼女の作った料理を食べながら、同じ時間を共有してくれようとしている。
それがたまらなく嬉しかった。
「私ももう一杯ぐらい食べようかな」
「太るぞ」
「平気です。まだ若いから代謝がいいもんね」
何度となく繰り返されてきた気の置けない日常会話のあと、ジュスタンはテーブルの上に置いていたアンヌ=マリーの伝記を、興味深げに手に取った。
ペラペラと音を立てページを捲る叔父の背中に、セレナは挑戦的に言い放つ。
「それね、レポートの題材に決めたのよ。我が国に黒い歴史の汚点を残した一人の女性――、ってどう?」
「……薔薇革命の権化か」
席に着いたジュスタンにお皿を渡して、セレナは自分も彼の向かいに座った。ちゃっかり、彼女の食べる分も用意してある。
「私ね、アンヌ=マリーってとんでもない鼻持ちならないお姫さまかと思ってた。でもちょっと本を読んでみて、彼女に対する認識が変わったな」
「変わった?」
「そう。だってね、彼女はあまり名の知られていない下位貴族の娘だったのよ? なのにいきなり、次期国王の目にとまるような華やかな世界へと引きずり込まれてしまった。きっと、ものすごいカルチャーショックを受けたと思うの。周りの人たちは彼女を持て囃したに違いないわ。そうこうするうちに、だんだんと彼女の性格も、高慢で情け容赦のない感じへと変わっていったんじゃないかなあ」
傲慢で冷徹な自分の欲望にのみ忠実だった悪女。彼女にまつわる愚かな話は、今日までいくつも伝えられている。
なかでも特に酷いのは、国王が彼女へのプレゼントと称して建立を決めた、豪華な離宮建設費のため、新たに民から徴収された税金だろう。長引く周辺国との戦争や度重なる派兵への軍事費の捻出、そして何より、それまで数年続いた悪天候による不作で疲弊しきっていた国民生活を、この税金は直撃した。まさに民にとっては、死の宣告にも等しい仕打ちであった。
この件が革命の直接の引き金にもなったのである。
ジュスタンは無言でポトフを口にした。だが、黙ってセレナの話に耳を傾けているのは分かる。
「周りの人間たちは皆彼女をチヤホヤしていたんでしょう? 冴えない貧乏貴族だった家族も一気に政界の要職へ引き立てられ金回りがよくなってきた。あげく自分が笑えば王太子でさえ骨抜きになるとしたら……。そんな持ち上げられ方をしたら、誰だって勘違いをしてしまうわよ。十五の小娘なんかいちころだって」
「そうだな。だが彼女は国王、つまり即位したアシル=クロード十五世の公妾にはなっていない。彼女は夫であるローゼンベルグ伯爵と、革命までは夫婦関係を持続していたと言われている。国王は完璧に手の中で踊らされていたんだな。いや、国王だけじゃない。大勢の男たちが彼女の愛人として、その名を後世にもあげられている」
「やっぱりとんでもない女の人だったってこと?」
「彼女が結婚した男、ローゼンベルグ伯爵は国王さえも凌ぐ財力を蓄えていった。元は、少しばかり裕福な貴族でしかなかった男だが、妻の影に隠れて急速に勢力をつけていったんだ。だからアシル=クロードも彼に手を出すのを躊躇ったんだろう。その微妙な力関係の中を、アンヌはうまく泳いでいった。彼女が王宮で権勢を誇れば誇るほど、伯爵も力をつけていける。もはや一国の王でさえ、簡単に手出しはできないほどにな」
ジュスタンはスプーンに掬ったスープをひとくち飲んで、セレナを見た。
「アンヌ=マリーの人柄を示すいい逸話がある。彼女は革命時ともに逃げていた侍女を人質にして、取り囲む民衆相手に命乞いをしたらしい。それで余計に反感を買い取り押さえられ、結果投獄されるんだが、凄まじいまでの生に対する執着心を見せたそうだ」
「そう……」
「お前には難しい題材だが、大丈夫か?」
彼は淋しそうに笑った。
また、この顔だ。
最近セレナを見る度に、悲しげな顔をしている。どうしてなのだろう。
「大丈夫よ、ディエ先生には頼りませんから」
セレナは食器を片づけるため席を立った。
「続きは部屋でやるわ」
ジュスタンが黙ったまま頷き返す。それっきり会話はパタリと終わってしまった。彼は何事もなかったかのように、セレナの存在さえ忘れてしまったみたいに背中を向けて、その上に冷たい気配を貼りつける。
赤の他人だってもう少し、楽しかった団欒への名残を惜しんで見せるだろう。それなのに。
幼い日の思い出がセレナの脳裏に浮かんだ。
夜のバイトに行くまでのつかの間、少女だったセレナを膝の上に乗せて、得意げに歴史うんちくを聞かせてくれた若かりし頃のジュスタン。彼は快活な人ではなかったが、決して陰気な性格ではなかったのだ。
駄目だ。
昔を懐かしがるのはやめよう。淋しいなんて思うのも、もうやめよう。
ジュスタンが叔父であることに変わりはないのだから。たとえ彼がいつか誰かと結婚しても、たとえその人との間に血を分けた子供が産まれたとしても。
セレナと彼の関係は、誰にも壊せない、永遠に続く絆でもあるのだから。
本を読んでいてすっかり夜も更けてしまった。
気がつけば時計の針が午前一時を差している。
セレナは瞑りそうになる目をこすって、ベッドの中から起き上がった。
締め切りは一週間しかないのだ。最低でも今夜のうちに一冊は読んでしまわなくてはならない。
眠気を覚ます温かいエスプレッソでも飲もうと、彼女は部屋から出てキッチンを目指す。通路に出ると、仄かな明かりがリビングから漏れているのに気がついた。
(もしかして、ジュスにぃ? まだ、起きてたの?)
セレナがリビングを覗き込めば、わずかに手元を照らすテーブルライトのみに明かりを灯し、肩を落として椅子に座る男の背中が見える。
やはりジュスタンだ。何をしているのだろうか。
「姉さん、あいつももう十七だぜ。信じられるか」
彼はボソリと独り言をこぼした。
セレナは慌てて壁沿いに身を隠し、聞き耳を立てる。部屋の中の主は、独白を盗み聞きする姪の存在に気づいてもないようだ。
「来年には卒業資格試験を受けなくちゃならない。勉強の方は――、さっぱりみたいだがな」
暗い部屋に溶け込むような重苦しい呟きは続いた。苦笑混じりのかすれた声が、セレナの足を床の上につなぎ止め動けなくしてしまう。
別に大学なんて行かなくてもいい。だから資格なんて無理して取らなくてもいいと、セレナは彼に何度も訴えてきた。
だが、ジュスタンはセレナの将来に対し、強い義務感に縛りつけられているみたいだ。今みたいに。
「あいつが、高校を卒業して……、無事にどこかへ進路が決まったら……」
男は渇いた笑いを漏らして、はっきりと口にした。
「俺はお役ごめんだ――。その日まではきっちり成長を見守ってやるから、安心してそっちで眠っていてくれ」